2011年12月11日

もうひとつの「ちょっと歴史っぽい西宮」謎編

 2010年から2011年にかけて、ちょっと歴史っぽい西宮というサイトをやっていました。古代から現代にかけて、西宮市の歴史を感じさせる場所を訪れ、それを時系列順にまとめるという趣旨でした。そうしてあちこち自転車で駆け回って歴史に思いを馳せ、それを書きまとめてきたのです。
 この記事は、そのサイトのウラ記事その2です。(その1補遺編はこちら)
 しかしですよ。時系列順でやるなら、そんな銅鐸や古墳などから話を始めなくてもよかったのでは、といまさらにして思います。

 ティラノ.JPGティラノサウルス

 こんなのでどーんと始めたほうがインパクトがあって良かったなと。この恐竜は171号線沿いにいますので、ご存知の方が多いでしょう。室川町のアイリス動物医療センター前で猛威をふるってます(笑)。どうしてこんなところに…と思いまして検索しましたら、作者の奥さんブログが。カッコいいっ♪

 さて、市内をあちこち見て回り、歴史っぽいものがあれば写真を撮り、いつの時代になんのためにこれが作られたのか、ということを調べて載せる、という作業を続けていたのですが、調べてはみたものの正体がよくわからず、結局撮ったままお蔵入りしてしまった画像がいくつかあります。そういうものを拾い出して並べてみようと思います。

 まずは、道標なんですが。

 御茶屋所道標1.JPG御茶屋所町道標

 状態がいいので、そんなに古いものじゃないと思うんです。ただ、これ西国街道沿いに建っているんです。しかも、瓦林正頼が八丁畷を築く室町時代以前の、本当に昔の西国街道沿いです。場所は御茶屋所町。だから、気になる。
 刻まれている文字も実に読みにくく、僕の中では「ナゾの道標」ということになっています。
 ※追記:にゃんこさんが文字を解読して下さいました(→てもちぶたさん:御茶家所町の道標)ので、謎成分はぐっと低下しました。ありがとうございました。十八番善能寺、十九番今熊野観音寺と解釈できますので、おそらくは京都の洛陽三十三所の道標です。なんで西宮に(汗)。
 しかし貞享二年ということで、本物だったら相当に古いものですが…。

 ナゾの石造物は他にもありまして。例えば鳴尾の寿公園。

 寿公園2.JPG寿公園石碑1
 
 これは特に、謎というわけではありません。読めば、「大正十一年九月 工費二万四千餘圓 道路改修十九町五十四間」と。どこの道を示しているのかは古い文書を辿らないとわからないかもしれませんけど、道路工事の記念碑です。こういうの、尼崎でも見たことがあります。

 しかしこれは何だろうなぁ。

 寿公園1.JPG寿公園石碑2

 これ、何と明治六年なんです。古い。旧字体に詳しくないので、道巾六尺なのか九尺なのか。どちらにせよ意味がわかりません。オイラに常識がないだけかなぁ…。六尺なら褌かなと(笑)。やっぱり道路工事か何かなんでしょうかね。どなたかご教示願えませんか。

 市内で最もナゾ深い石造物といえば、これじゃないんでしょうかね。

 市境1.JPG西宮市境界1
 
 市役所隣、茂松禅寺の南西角に「西宮市境界」と刻まれた石標があります。なんだこれ。もちろん市の境がここにあったことはありません。市役所との境界か? いやそれもおかしい。

 市境2.JPG西宮市境界2

 もうひとつありますよ。これは、西側壁に埋め込まれています。いったい何の意味が。さっぱりわからないのです。
 元からここにあったとは限りませんけれどもね。もしかしたら、震災後である可能性も。どっかに情報ないかなあ。

 これは、甲武橋西詰のたもとにある煉瓦造りのトンネルです。新堀川にかぶさっています。僕は、仮に「甲武橋マンボウ」と名付けました。

 謎トンネル.JPG甲武橋マンボウ(仮)

 このトンネル、JRをくぐる人道トンネルの「マンボウ」に酷似しています。大きさは、甲子園口のマンボウより少し小さいかな。
 それはいいのですが、このマンボウ、超芸術トマソン(@赤瀬川原平)で言うところの「純粋トンネル」であるということです。ただ純粋に川を覆っているだけ。実に面白い(笑)。こういうものが西宮にあったとは。
 これについては後に、市郷土資料館主催の「西宮歴史調査団」さんに詳細不明物件として採り上げられたということを知り、僕もちょっとそれに便乗して推論を記事にしてみました。これです→「新堀川上流最大の謎」に迫る その1その2その3その4その5
 この記事を出して後、郷土史家の今津っ子さんが推論を証明してくださり、事実関係が確定しましたので、謎ではなくなりました。

 この甲武橋のマンボウは結局廃道跡だったのですが、僕は本編では鉄道の廃線跡を辿りました。その中で、採りあげなかった場所があるのです。本来旧武庫川線のページで書くべきでしたが、これが何だか結局分からなかったことと、文字数制限で割愛しました。

旧津門川橋2.JPG この画像は、旧津門川を渡る旧武庫川線跡です。手前の赤茶けた橋梁がそれです。アサヒビール等工場への貨物輸送線として始まり、戦中には鳴尾村洲先への旧武庫川線の一部として利用され、戦後もしばらくは活用されていました。
 東海道線の大阪〜神戸間は、基本的に複々線です。つまり4本の路線が走ります。で、この旧武庫川線の廃線跡がその南側に位置して、この旧津門川には廃線橋梁含め5本の鉄橋が架かっている。そのはずです。ところが。


 枝線2.JPG旧津門川橋梁(北側)

 これは、上画像のが南側であるのに対し、北側です。現役路線の4本の東海道線の北側に、もう一本橋梁があるのがわかります。つまり、旧津門川には6本の橋梁が架かっているわけです。この北側の橋は何?

 枝線1.JPG  
 
 下から見上げます。旧武庫川線の鉄橋と比べますと、多少造りが安っぽいかもしれません。だからと言って、これが鉄道の架橋ではないとは言えません。(以前はこうして橋の下に潜れました。これは約1年前の画像です。今は柵が出来てますから、こうして入ってはいけません。^^;)
 
 枝線4.JPG

 東側から見ます。白い自動車が停まっているあたりが橋梁です。そこから手前に向かって伸びてきて、道路に吸収されていきます。
 引込み線の跡である、と考えることも出来ますが、よくわかりません。そもそもどこに引き込むんでしょうか。古い地図も少しは見たのですが、正体は分からず。

 枝線16.JPG
 
 完全に夢想ですが、道路によって途切れた路線は、こっち側(北側)へ繋がっているようにも見えたりして。なんか痕跡が感じられるのですが…。さすれば、この引込み線は阪急今津線へ合流することになります。
 阪急今津線は、戦時中は仁川にあった川西航空に繋がっていました。もしかしたら阪神が武庫川線でJR線と川西航空を繫げたように、阪急とも繫げようとしたのか? …しかしあまり想像だけでものを言ってはいけません。最も可能性が高いのは、ただの現場への橋(笑)。

 さて、他にもよくわからないけど歴史っぽいものは、あります。もう少しだけ並べます。

 西墓跡.JPG西墓跡

 夙川オアシスロードの途中、2号線から堤防東側の道を南下しますと、このさわやかな公園通りにあまりそぐわない石造物群があります。と申しますか、この大半は墓石です。おそらく、何も知らずに夜中ここを歩けば、結構怖いのじゃないかと。なんでこの場所にこのようなものが?
 これについては、吉井良秀翁が「老の思ひ出」で書かれている「西墓」の痕跡であることを今津っ子さんが証明されています。→今津いまむかし物語:旧西国街道を歩く(5)★西宮〜御茶屋所
 わからないことは、いくつかあるのですけれどもね。移転したのであるとすれば、どうして墓石がこうして残ってしまったのか。仮に無縁仏であっても、放置するものなのだろうか。
 また、移転したのであればどこへ移転したのか。満池谷墓地がまだ出来る前だとすれば、六湛寺の墓地に移したのか。しかしあそこも飽和状態だったはずです。「西墓」というのは西宮の町から見て西にあるからであり、もしかしたらそもそもは「古夙村」の墓地であったのかとも考えましたがそれは当らないようです(したがって郷免町の墓地に移したのでもないでしょう)。
 墓地については、寺院内墓地はともかく、昔は本当に村ごと、集落ごとに存在したようですね。それは現在でも受け継がれている場合が多い。だから、失われた墓地は気になるんです。西宮の六湛寺墓地、今津の津門墓地、今津墓地が失われたのは繁華街化したことでありしょうがないわけで、満池谷墓地への移転もはっきりしていますから問題はないのですが。
 例えば、鳴尾には上鳴尾墓地、小松墓地、上田墓地とあって中津墓地まであるのに小曽根墓地は? 何だか気になるんです。上鳴尾墓地が兼ねていたと聞いたことはあるんですが、どうだったんだろう。
 西宮には、どれだけ墓地があったんでしょうかね。
 えーっと瓦林は甲子園八幡神社の裏と甲子園口と松並墓地があって(下瓦林・御代開・上瓦林)、そして高木墓地があるから、瓦木村はだいたい残っているのかな。あらきの森公園の東の墓地は、荒木新田か上新田か…それとも樋之口新田なんでしょうか。甲東村は厳島神社のところと厄神さんの近くと関学の裏と、貝の介墓地と…あとはどこにあったっけ? 六軒墓地は大社村かな。
 市内の神社はほぼ行ったのですが、墓地も一度、網羅してみようかなとも思ったり。
 「老の思ひ出」には西墓のことが書かれていますが、同時に「小墓」という存在も記されています。
西墓は夙川の東堤で東面の緩斜地に有つた、丁度大昔の西国街道に當る邊で僅の地で有つた、小墓と云ふものも東川の西、用海の南に有つたが共に廢せられた今其地藏だけ殘つて居る
 その小墓は、どうも用海小学校の東側にあるこちらにあたるようです。お地蔵さんがまつられています。「長音山圓満地蔵尊」とされますが「小墓の地蔵さん」としても知られています。

 小墓.JPG小墓の地蔵さん

 おそらく、こちらが小墓の址です。今も近隣の方々に丁寧におまつりされています。
 さて、もうひとつ。

 なんか集合体.JPGいろいろ集まってる

 ここも、何かの跡のような気がどうもしてしまうんですけれども。整理された感じがしますしね。場所は、旧国道と東川、六湛寺川が交わるところ。用海筋と43号線の交差点に近いです。
 一説によれば、西墓、小墓の他に「東墓」とよばれる墓地が西宮にはあったらしいのですが、それがもしかしたらここかなあ?よくわからないのですけれどもね。

 さらに、よくわからないものを列挙していきます。

 法界聖霊塔.JPG法界聖霊塔

 ニテコ池の西南に建っている塔なのですが、どうしてこういう場所に建ってるんでしょう。宗教的なことはよく分からないのであまり言及してはいけないのかもしれないのですが「法界聖霊塔」というものも初めてここで見ました。
 裏面に「明治廿二年七月」と刻まれています。古いですね。功徳主として「辰馬悦蔵」の名も。明治22年ということは、白鷹の初代である辰馬悦叟翁のことですね。

 鳴尾の「本郷」である鳴尾一〜四丁目あたりの細かい路地をウロウロしていますと、なんだか懐かしい気分になります。昭和の雰囲気と言えばいいんでしょうか。僕の育った家も、こんな路地だったなぁと。
 ふと見ると、こんな石が。お風呂屋さんの北側あたりです。

 踏み臼.JPG不思議石造物

 これ、何でしょうね。
 どこかで見たことがあるんです。もしかしたら踏み臼の台かなとも思ってみたり。
 これを支点にしてシーソーのように柄をわたらせ、片方に杵をつけてもう片方を足で踏んで杵を上げ、放して落とし、搗く。クボタHPに写真ありました。
 けど、シーソーの跡かもしれないしなぁ(笑)。

 丸橋甲風園.JPG広すぎる道

 丸橋町の、住宅街の中の公園みたいな広い道です。とにかくここだけ道がやたら広い。滑走路か。甲風園方面を望んでいますが、そっちは本当に道の中に公園を作ってしまっています。
 これは、単純に考えればおそらくは中津浜線から来る北口線と繋げようとして、用地買収などがうまくいかずここだけ広い道になって、171号線にも出られず阪急今津線も越えられなくて広場になっちゃった…ということになりますけど。しかしここだけパッと見たら、なんだか不思議な広場。

 なんやねん.JPG

 大型マンホールか? この道路上のデカい穴はなんやねん? 天道町です。しかし、ここまで来ると歴史っぽくないな(笑)。路上観察学になってしまいそうなのでこのへんにしておきます。

 では最後に、百度石。
 お百度参りの解説は必要ありませんね。参拝を百回繰り返して祈願成就、という信仰です。このため、神社の入口にお百度石が置かれたりします。その石と拝殿間の往復を繰り返すわけです。そのしるしみたいなもの。
 これは、熊野神社の百度石です。

 百度石.JPG百度石

 百度石は往復の目安にされることが多いですから、このように参道の真ん中あたりに設置されていますと、入り口の鳥居まで戻らなくてもいいとも思えますから、こちらの神様は優しい、と解釈することも可能です(笑)。
 ハッ(゚ロ゚〃)そんなええかげんなことを言ってはいかんっ(汗)。神様はみな平等で、優しい神様や厳しい神様などと区別してはいけないっ!。\(_ _ ;)ハンセイ…
 しかし、どうも厳しい神様もいらっしゃるのではないか。そんな気もしてきます。

 千度石.JPG千度石

 松原天神さんです。千度石ですよ(汗)。どうもこれはスパルタではないでしょうか…。
 しかし、しかしですよ。僕は「千度石」は以前、他の神社でも見たことはあるのです。ですが、以下の石は初めて見ました。津門神社です。

 万度石.JPG万度石

 萬度石ですかっ!これは…厳しい。数えるのだけでも苦行ではないですか(大汗)。
 しかしこれで宝くじ3億円当選させてくださるのなら、僕は津門神社に1万回参りますけど。←オマエ全然お参りということが分かってへんやないか〜ヽ(`Д´)ノ コラー

 以上「ちょっと歴史っぽい西宮」謎編でした。

 
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posted by 凛太郎 at 18:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅記事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
茂松禅寺の境界碑は西宮市役所が作られるときに境を
はっきりさせたものかもしれないなとは思っていますが、
あくまで想像です(笑)
御茶家所町道標は写真ではわからないけど
実際に見たら多少は文字が読めるかもと期待して、
そのうちに行ってみます。
Posted by 香苗 at 2011年12月18日 20:10
>香苗さん
ありがとうございます。
市境碑については僕もそうかも、と思いましたが、なんで西南角と西側壁にあるのかがわかんないんですよねー。震災後に移動したんかな。
茂松禅寺さんに聞けばすぐわかるんですけどね(笑)。
御茶家所町の道標は、古文書(続き字)読みなれてる方なら読めると思います。僕は、少しあやふやな文字があって完全には読めず、ここには書き込みませんでした。しかし、どうも西宮の道標ではないんじゃないかな。でもどこかと言われたら特定出来ず…(汗)。
Posted by 凛太郎 at 2011年12月19日 06:34
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