2009年01月17日

僕の旅番外編・高知のマニアック歴史ポイント

高知には学生時代以来、僕にしてはかなりの頻度でお邪魔している。詳しくは表ブログの「僕の旅 高知県に書いた通りであり繰り返すことはしないが、ことに高知市内は、歴史散策を趣味とするものにとっては一級の地である。
源希義(頼朝の同腹弟)が流され、旗揚げに失敗し討たれた地でもあり、南北朝時代の大高坂松王丸、そして四国の英雄長宗我部元親、近年大河ドラマにもなった山内一豊など様々な歴史的人物が足跡を残している場所である。それら史跡にももちろん足は運ばねばならないが、特に興味深いのは幕末から明治維新にかけての時代である。この時代は歴史として考えれば近年であり、まだまだ足跡が色濃い。なので、かなり細かく歴史的事象の残り香を辿ることが出来る。それが楽しい。
という訳で、高知市内を何年かに一度はうろうろして、そんな時代の空気を感じて僕は悦に入っているわけである。

土佐と言えばその代表格はもちろん坂本龍馬であり、おそらく歴史上の人物としては日本で最も著名で人気が高い。高知の観光の目玉であり、龍馬空港や龍馬郵便局などその名を冠して(言い方を変えれば便乗して)いる施設も多く、街を歩けば龍馬龍馬で多少食傷してしまうこともある。龍馬はんは僕が歴史上の人物の中で唯一「好き」と言ってもいい人物であり、そのような状況に文句を言う道理など無いのだが、土佐の幕末の歴史はそれだけではない。
全国にゴマンと居る(ゴマンどころか800万人も存在すると言われる)龍馬ファンは、憧れの地である高知にやってくれば、まずは桂浜へ行く。そこにはあの高名な海を見つめる坂本龍馬像が聳え立っているわけで、まずはその像の前に佇み思いを馳せる。これは僕も、最初に高知にやって来たときには同様の行動をとっている。そして、近くの「県立坂本龍馬記念館」に行く。これが出来た時には僕もとにかく駆けつけた記憶がある。内容の濃い史料が展示されていて有難い。
と、これで莞爾として旅を終えてしまう人がかなりの割合にのぼると聞いたことがある。もったいない! せっかく高知に来たのならもっと歩こうよ。高知市内には、歩いて回れるところに史跡がこじゃんと溢れているのだから。

もっとも、市内であっても歩いて行くにはちょっと遠いところもある。例えば、武市瑞山の生家などはちょっと遠い。
車その他の手段を持たない場合は、はりまや橋のバス亭から「前浜行」に乗って約30分、「瑞山神社前」で降りると、目の前が武市瑞山の生家である。

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ここは今でも人が住んでおられるので勝手に中へ入ることは叶わないが、僕はご好意で見学させていただいた。

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母屋は萱葺きでなくなったこと以外は全て昔のままであるそうだ。
武市さんは、引っ越す以前はここから城下に通っていた。かなりの距離がある。青雲の志あればこそだろう。
生家の脇に瑞山神社がある。

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ひっそりとしている。拝殿には史料が展示されていて、随意に見学することが出来る。
裏へ上れば、武市さんと奥さんの富さんのお墓がある。

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武市半平太瑞山は、土佐勤王党の盟主であり、土佐藩の尊皇攘夷運動を牽引した。吉田東洋事件や京都での天誅の黒幕としての暗黒面はあるが、人望厚く高潔な人物だったと伝えられている。彼や中岡慎太郎が明治維新時に存命であれば、薩長の独断的政府にも多少の歯止めがかかったかもしれない。

武市さんの高知城下の剣術道場は、現在の桜井町にあり、市内の横堀公園に碑が立つ。

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実際はこの碑の北東側に位置していたらしい。

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碑の向こうに古い屋敷が見えるが、その右側あたりだったのだろうか。
道場には中岡慎太郎や岡田以蔵も通い、坂本龍馬ら多くの土佐郷士が出入りしていた。

街中の帯屋町には、武市さんが切腹して果てた地に碑が残されている。「ひろめ市場」のすぐ近く。

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武市さんはここで三段に腹を切るという壮絶な自決をした。

武市さんが切腹を命ぜられる一因となった吉田東洋暗殺事件の現場も、この「武市瑞山殉節の碑」からごく近い場所にある。

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土佐藩参政吉田東洋は決して因循な人物ではなく開明的な政策を打ち出した能吏だった。話し合いで解決する時代ではなかったことが誠に残念である。

武市さんの道場跡から北へ、江の口川と暗渠工事が進む新堀川が交わるあたりに、中江兆民誕生地碑がある。

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「東洋のルソー」と呼ばれる偉大な思想家兆民も若き頃、龍馬はんに「中江のニイさん煙草を買うてきてオーセ」と言われて、使い走りなどしない自分もつい行ってしまった、と語り残している。偉人は偉人を知る、か。

兆民生家から北西、江の口川に山田橋がかかっているが、このあたりにかつて高札場と番所があり、藩の獄舎もあったらしい。土佐勤王党員も多くが獄につき、処刑された。

その獄舎は、高知城の北、洞ヶ島町の薫的神社に移築され保存されている。

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数多の無念が宿る建物だ。

処刑された人の中にはあの「人斬り以蔵」として知られる岡田以蔵も居る。
以蔵さんの墓は、高知市薊野にある。

JR薊野駅もあるし、車だと県道44号線ですぐだが、街中から歩いてでも行ける。ちょっと遠いが。
県道44号線にあるヤマダ電機を目印にするといいだろう。ヤマダ電機前の信号交差点を北に入り突き当たると、墓地のある真宗寺山の簡単な案内板があるがこれでは分かりにくい。具体的には、TSUTAYAの裏手にある沢田マンションの東側を北へ入る。すると、車の入れない墓地への上り道が山にそって現れるのでそこを行く。右手には住宅地の道が並行している。
左手に墓地山へ入る登り小道がいくつもあるが、二本目の登り道を入ると分かりやすい。あざみの保育園が真横に見えれば行き過ぎ。
少し登れば、以前にはなかった案内板があるので、矢印の方向に向かえば以蔵さんの墓がある。

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墓碑銘には諱で岡田宜振。僕は二度目の墓参だったが、以前にも花が供えられていた。
陰湿な暗殺者のイメージが強い以蔵さんだが、龍馬はんに頼まれ勝海舟の護衛もし、またジョン万次郎も護衛したという逸話には何かホッとさせられるものがある。
また真宗寺山には岡本寧浦の墓もあるはずなのだが発見できなかった。

「土佐の高知のはりまや橋で」で名高いはりまや橋は、かつて日本の「三大がっかり名所」として知られていたが、道路に欄干だけがぽつりとあったかつてのはりまや橋跡とは異なり、現在では小川も整備され公園化し、それなりにがっかりしない場所になっている。そのはりまや橋近くに、河田小龍邸跡がある。

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儒学者としては岡本寧浦の弟子にあたる。むろん画家として高名だが、ジョン万次郎の聞書「漂巽紀略」を著したことでも知られ、龍馬はんもかなり影響を受けた。私塾「墨雲洞」では、長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助など後の亀山社中のメンバーが数多く学んでいる。見方を変えれば小龍が龍馬はんの下へ一線級を送り込んだとも言える。
小龍邸跡のすぐ南には、長岡謙吉の生家もあったのだが、石碑等は見当たらない。

はりまや橋の西側は現在ではかなり栄えているが、かつては下町だった。ここに、岡本寧浦や河田小龍が居を構え、武市瑞山が道場を開き、長岡謙吉や兆民さん、江ノ口川の北側には以蔵さんも住んでいた。ひとつの文化発信地であると言っていいと思われる。

あちらが下町なら中心地はやはり高知城である。

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昇ると城下が一望で気持ちがいい。

この周りに住んでいたのは当然上士である。

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板垣退助や、

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後藤象二郎など。他にも福岡孝弟ら幕末維新に活躍した面々が並ぶ。

さて、城下をさらに西へ、上町方面へ向かうと龍馬はんが生まれ育った町である。
高名な旅館の城西館、その脇に吉田茂揮毫の「龍馬誕生の地」碑がある。

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ここはやはり一級の観光地であり、カメラを持った人が多い。龍馬ベンチが置かれ、龍馬郵便局もある。以前はここに龍馬上半身像をのっけた電話ボックスがあったが、先日訪れた際には撤去してあった。さすがにやりすぎだと反省したのか、それとも単にボックスの利用者が居なくなっただけなのか。
裏手には「龍馬のうまれたまち記念館」なるものも出来ている。

近くには、坂本家の本家である才谷屋跡。現在は「喫茶さいたにや」が建つ。

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余談だが、ここのモーニングはボリュームがあって美味い。

さらに、近藤長次郎邸跡。

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土佐脱藩浪士の旧宅跡などはあまり石碑などは見当たらないことが多いが、この碑は立派である。ゆかりのある人の尽力でもあったのか。

少し南下すれば鏡川。

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日根野道場も川のほとりにあったはずだが、場所が特定しにくい。

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おそらくこのあたりではないかと想像される。「よばいたれ」時代の龍馬はんに思いを馳せるにはこれで十分だろうか。

もう少し足を伸ばしてみる。長次郎さんの家から少し北上、上町二丁目の交差点がある。国道33号線を渡ってすぐ右手(東側)に、市立第四小学校があるが、その塀脇にいくつも石碑が並んでいる。

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右側の大きいのが「婦人参政権発祥の地」碑。「民権ばあさん」として知られる楠瀬喜多を顕彰している。左側は獄洋社址。政治結社として立志社と並び称され、坂本直寛(高松太郎の弟、つまり龍馬はんの甥)も在籍していた。
そして真ん中の碑が、「河野敏鎌誕生地」碑である。
河野敏鎌は土佐勤王党のメンバーで、例の弾圧で6年間入獄、維新後後藤象二郎や江藤新平の知遇を得て司法省に出仕。
河野敏鎌と言えば、佐賀の乱後の裁判である。
鎮圧後の裁判において、江藤新平は、自らが作り上げた近代法制に則ることなく、「さらし首」という文明国家にあるまじき蛮刑に処される。「裁判長、私は!」という江藤の叫びが聞こえてきそうであるが、この時、「除族の上、梟首」という判決を下した裁判長が河野敏鎌である。
河野敏鎌はこの時どう思っていたのだろうか。大久保利通の指示とは言え、かつての恩人江藤新平に対し、どのような思いで判決を下したのだろうか。

元に戻って、上町二丁目の交差点から北へ二つ目の信号あたりだっただろうか。左手(東側)に、「→廣井磐之助邸跡」の標識がある。
この標識を真っ直ぐ西へ進むと、池内蔵太邸跡、望月亀弥太邸跡へ行けるのだが、その前に廣井磐之助邸跡に寄る。細木病院のちょうど裏手に石碑がある。

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廣井磐之助は、父の仇棚橋三郎を討つため各地を流転、その話を龍馬はんが聞いて、勝海舟門下に入ることを勧め、その後何とか本懐を遂げた人物である。
少し離れた場所に、墓がある(場所は分かりにくい)。

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この墓碑銘の揮毫は勝のとっつぁんであり、裏面には龍馬はんとの謂れも彫り込まれている。大石円らが建てたものである。

さて、先ほどの道を真っ直ぐ行けば池内蔵太邸跡だが、ここには碑などはない。ただ、このような案内板が立つ。

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この案内板は坂本龍馬関連のもので、この周辺あちこちにある。このあたりが内蔵太さんの家なのだが、この案内板には「ここですよ」とは書かれていない。説明文はこうである。

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手紙もそりゃいいけどさー、このあたりが内蔵太さんの家です、と何で書かずにこんな思わせぶりな文面にしてあるのか。ここだけではない。あちこちそうなのである。案内板には龍馬のことしか書いちゃいけないのか。全くもう…。

しかし、以前はこんな案内板も無かった。これでも進歩と言えるのかもしれない。釈然としないけれども。
その並びにある駐車場が望月亀弥太邸跡となる。
亀弥太さんはあの池田屋事件に遭遇し新撰組の襲撃を受け深手を負い、自刃して果てた。

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画像は西側から撮影しているので、この駐車場の向こう側が内蔵太さんの家方面である。

さて、さらに道なりに進むと、永福寺がある。

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子供の頃の龍馬はんの遊び場だったとも言われる永福寺だが、上士と郷士の対立勃発、土佐勤王党結成のきっかけともなった井口事件で知られる。池田虎之進と宇賀喜久馬の切腹は、土佐から脱藩浪士を次々と生じさせることになる。

この永福寺の裏手にあった山が、坂本家一族の墓があることで知られる丹中山である。10年以上前に初めて僕がこの地へやってきたときは、山の斜面に墓が点在する墓地山だったのだが、土地開発に晒され、来るたびに山が削られ、様相が変わっていた。
現在では様々な方々の尽力で、坂本家の墓地を中心に歴史公園が造られ、なんとかその形を留めている。雰囲気はなくなったが、最善の結果なのかも、と思う。

墓はこんなふうになってしまった。

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すっかり裸山で風景は昔と全く違うが、墓石はしっかりと残されている。父の八平、母の幸、兄の権平夫婦、乙女姉さんらの墓が並ぶ。
なお、話題になっていた栄姉さんの本当の墓(柴田作衛門妻の墓)と言われる墓石も近くに並べられている。

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ここには確かに「柴田作衛門妻・坂本八平女」と彫られており、栄姉さんが龍馬脱藩の際に刀を渡して自害したという話が虚構であったことの証明となる。栄姉さんは離縁もしておらず、しかも龍馬脱藩以前に亡くなっていたことになり刀など渡せなかった。

丹中山歴史公園には、数々の墓石が並べられていて実に興味深い。ひとつひとつ確認しながらまわりたい。

丹中山を降りてJRの線路に向かって歩けば、「平井収二郎誕生地」の碑が見える。丹中山にも墓はあった。

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亀山社中に集った脱藩浪士の生家などは前述の内蔵太さんなど石碑のようなものは殆ど無い(長次郎さんは例外的)が、間崎哲馬や弘瀬健太らのように藩内の弾圧で命を落とした志士たちの足跡はしっかりと顕彰されて碑が立てられている。これもひとつの見識ではあると思う。
ところで、平井収二郎誕生地ということは、つまり平井加尾さんの家でもあるということだ。龍馬はんの初恋の人とも言われている。
例の手紙「高マチ袴・ブツサキ羽織・宗十郎頭巾」が何を指し示すかは謎であり、三面記事的に考えるのも楽しいことは楽しいわけであるが。

高知市内散策も終盤。和霊神社へと向かう。
永福寺から国道33号線へ下りてきたところが上町五丁目の交差点。そこを南へ延々と歩く。
ただ、これはあまりにも遠い。4km弱ある。僕は当時の人の「距離感」みたいなものを体感したくて徹底的に歩くことにしているのだが、これはバスを使った方がいいのではないか。中年の身にはあとで応えた(汗)。
鏡川を渡り、石立八幡宮を過ぎ、国道56号線を越え神田川を渡る。スーパー「マルナカ」を過ぎしばらく行くと高知銀行が見える。ここに初めて「和霊神社」の案内が出てくる。しかしよく分からない標識である。
高知銀行を左折(東方向)、ダスキンの看板が見えてくれば、そのあたりから案内板表示が始まる。
案内に沿って、小学校と「土佐ぽかぽか温泉」の間の道を行き、信号を渡り住宅地に入り込む。しばらく行くと、「→和霊神社」の案内が。
しかし、この案内は少し分かりにくい。「TOTO」の看板の向こう側に「→」があるが、そのひとつ手前を曲がった方が行きやすいのではないかと思う。無責任なことは書けないが、案内表示を見失ってもしつこく探せばある。
さすれば、鳥居が見える。

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和霊神社は才谷屋所有の山に、龍馬はんの先祖が宇和島から勧請してきて祀った神社であり、坂本家にとってはもちろん大切な神社である。龍馬はんは脱藩の前日「花見に行く」と言い残してこの神社に詣で、翌日3月24日の夜、沢村惣之丞さんとついに国抜けを敢行したと言われる。
実際は、旧暦3月24日は4月下旬にあたり、南国土佐の花見にしては遅すぎるとの説もあり、本当にこの神社で水杯をしたのかなとの疑問もあるが、それは伝説にせよ、坂本家にとって重要な神社であったことは確かであり、龍馬はんが一度も来たことがないということはなかろう。

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急坂を上る。なんとも言えない雰囲気のある場所である。

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社殿の一部、また境内の石灯籠は龍馬はん時代からのものであるらしい。何とも古びた様子、また辺りのそま道は「往還」の雰囲気を醸し出していて、脱藩前夜には実に相応しい場所だとは思うのだが。

陽も翳り、あたりは急に夕闇の様相を呈してきた。ホテルに帰ってしばし休み、そしてビールをくらって大好きなカツオの叩きでも食べることにする。高知の旅はこれもまた楽しみである。


なお本編の姉妹編として、僕の旅番外編・長崎のマニアック歴史ポイント僕の旅番外編・萩のマニアック歴史ポイントもよろしければご覧下さい。
posted by 凛太郎 at 17:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅記事 | 更新情報をチェックする
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