2008年11月10日

番外編・ゼンマイじかけのカブト虫

 この記事は、井上陽水「おやすみ」の枝記事として書いている。

 上リンク記事で、僕は「ゼンマイじかけのカブト虫」では、うたの持つ怖さと深さがよく分かるような気がする、と書いた。そこで、ちょっとえげつなく解釈してみる。

  カブト虫 こわれた 一緒に楽しく遊んでいたのに
  幸福に糸つけ 引きずりまわしていてこわれた

 これが一番の歌詞。たったこれだけなのである。圧倒的に言葉が足りない。
 このカブト虫というのは、ゼンマイ仕掛けとタイトルにある以上、おもちゃのカブト虫なのだろう。ただ、そんなことは何の説明も無い。これだけ聴いたら、捕まえてきたカブト虫に糸をくくりつけて飛ばしたりして遊んでいたようにも聴こえる。「幸せに糸付け」と描かれていることがその思いを助長する。ゼンマイを巻いてガサゴソと動かすおもちゃは飛んで逃げていかない。なので糸を付けることは普通しないだろう。僕は子供の頃、トンボに糸を括り付けて飛ばして遊ぶという今で言えば愛護団体に怒られそうな乱暴な遊びをしたことがあるが、それを連想してしまった。だいたい、ゼンマイ仕掛けのカブト虫のおもちゃなんて僕は見たことが無い。
 ここで視点を変えてみる。タイトルは措いて、これは生きた本物のカブト虫だと仮定してみたらどうか。そうするとかなり不気味だ。
 虫に糸を付けて遊ぶのは子供ならやること。そして結果的に殺してしまうこともよくある。そういう場面を想定して、「カブト虫が死んじゃった」と書けば普通である。ところが、「毀れた」と無機質に書くことによって頑是無い子供の無知なる残酷さまで浮かぶように思う。まだ生き物の生死、生命の大切さなども実感として分かっていない子供。僕の捕まえてきた大切なおもちゃが動かなくなってしまった、と思っている年端もいかない子供が佇む風景。
 何故こんなに無機質さが支配するのかと言えば、最後の部分は情景だけを描いて感情を描写していないからだろう。楽しく遊んでいたカブト虫。幸せだったのに、最後カブト虫はただ「毀れた」のだ。死んで哀しかったなどと書かない。心理描写に空白がある。その言葉が足りていないことによる余韻が何か背筋に感じさせるのだ。 言葉を削ることによって醸し出す世界。

  白いシャツ汚した いつでも気をつけて着ていたのに
  雨上がり嬉しく 飛んだりはねたりして汚した

  青い鳥逃がした 毎日毎日唄っていたのに
  鳥籠をきれいに 掃除をしている時逃がした

二番、三番と、彼の情景が歌われる。汚れないように気をつけていたシャツを、雨上がりが「嬉しく」て遊んでいたらつい汚してしまった。「気をつけて」「嬉しく」とそこまでの感情は描写しているのに、一番と同じくやっぱりラストシーンの感情は省略している。毎日その唄う声を聞いていた青い鳥も、逃がしてしまったときの哀しさは描かれていない。
 最後の感情は省略してリスナーにゆだねる。それも手法だろうとは思うが、聴く側とすれば、何か空白感を感じる。カブト虫が壊れた、シャツが汚れた、鳥が逃げた。大切にしていたものを喪失したとき、何かを人は感じるだろう。それを何の描写もせず、或いは意識的に言葉を削り取ってぽーんと投げてよこす。そこに、僕はあまりにも無機質な世界を感じてしまうのである。まるで哀しいという感情を忘れてしまった少年の姿。
 そして、そうは書いてはいないけれども時間は過ぎて、少年は青年になったのか。四番の歌詞。

  君の顔 笑った なんにもおかしい事はないのに
  君の目が こわれた ゼンマイじかけのカブト虫みたい

 たったこれだけの言葉。これはどう解釈すればいいのだろうか。
 とにかく、表向きは恋愛関係が成立していたと思われる男女だろうと思う。「君」と「僕」の関係だから。そしておそらく、その恋愛関係は毀れてしまった、と「僕」は感じているのだろう。
 なんにもおかしいことはない、と「僕が」思っているのに君の顔は笑っている。そこに、意思の疎通がもう出来ていない二人が浮かぶ。この人はなんで笑っているのだろう。僕には全然彼女の気持ちが分からない。そして君の目が「毀れる」のである。どういう意味だろうか。
 目というのは生物の器官のひとつ。機械じゃない。だから傷めたり潰れたりすることはあっても「毀れる」ことはない。つまり「僕」は彼女の目を、既に血の通う生物の器官ではなく、無機質なものだと言っていると同じことなのだ。

 一番で僕はカブト虫は、もしかしたらおもちゃじゃなくて捕まえてきた生身のカブト虫じゃないかと言った。突飛な見方だろう。「毀れた」と言っている以上おもちゃに決まってるじゃないか。生き物なら「死んだ」と描くだろう。けれども、四番では彼女(の目)までも「毀れた」と言う。
 彼にとっては、気持ちが通じなくなった段階で相手はもう生きていないのと同じことなのだ。だから、「毀れた」。そして、「ゼンマイじかけのかぶと虫みたい」と。

 ここにもラストシーンに感情描写が無い。まるでゼンマイじかけのカブト虫と同じように思えてしまう。だから何だ。哀しいのか。それに対する言葉は無い。この虚無感は何だろう。この「僕」という登場人物の心に生じた空白感がありありと見えるのはいったいどういうことだろう。
 慎重に言葉を選ばなくてはいけないのだが、何だか精神に何かをきたしてしまった犯罪者の調書を読んでいるような気さえしてしまう。
「彼女はもうその時点でゼンマイ仕掛けの人形と同じだったのです。僕にとっては」
 
 まず無茶苦茶な聴き方だろうとは思う。けれども、それほどこの歌には徹底して失ったもの、もう帰ってはこないものへの悲しみが描かれていないのだ。鳥かごから逃げた青い鳥はもう二度と帰っては来ない。かわいがっていた鳥であれば悲しいはずだろう。けれども、その言葉は削られている。そして聴く側に埋めがたい空白感を生じさせてしまうのだ。

 だから、「ゼンマイじかけのカブト虫」は、怖い。陽水がそれを狙って言葉を削り取って提示したのであれば怖いし、もしもそうでなかったとしたら尚更怖い。ゼンマイじかけのカブト虫とは、もしかしたら何かの比喩であるのか。怖い。とにかく得体が知れない。
 こうして震えたり考え込んだり、解釈を試みたりしようとすることもひとつの「感動」だろうと思う。聴き終わった後に心が乱れるのだから。やはりこの人は天才なのかと思う。
posted by 凛太郎 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記事 | 更新情報をチェックする
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