2014年02月08日

西宮市域における村落墓地の成立まで

 西宮市域の村落墓地を考えるにあたって、墓地の歴史から辿ってみたい。

 墓というものがいつからつくられ、それが一定の場所に集められる、いわゆる墓地というものがいつから発祥したのかは、定かでない。ただ新石器時代からは、埋葬場所というものが在ったことは確認されつつある。
 例えば縄文時代だと、三内丸山遺跡から墓が見つかっている(→三内丸山公式HP)。弥生時代だと、吉野ヶ里遺跡から王族ではない一般の墓群が発掘されている(→吉野ヶ里HP)。これらは、墓地ととらえる考え方も出来る。
 西宮ではそういう場所は発見されていないが、弥生期以前の遺物出土例もほとんどない以上、これはいたしかたのないこと。弥生期以降も、埋葬場所の発見までには至っていない。

 ただ、もう少し時代が下ると、そういう墓地というものが歴史から消えてゆく。
 もちろん「古墳」という存在はある。あれはもちろん墓であり、僕も西宮市内の古墳を追った(→ちょっと歴史っぽい西宮)。
 しかし今に残る古墳は、族長など限られた有力者のためのものという説が一般的である。あんなもの全ての人が築くのは無理だ。巨大古墳には陪墳があり(津門稲荷山古墳には陪墳が存在した可能性が高い)、また終末期には八十塚古墳群のような群集墳も築かれるが、そういうものを墓地ととらえるには無理がある。
 じゃ普通の人のお墓はどうだったのか。これがよくわからないらしい。
 平安時代になれば、貴族の墓もあったのかなかったのかわからなくなってしまう。藤原道長の墓はどこ、と言われて答えられる人は少ないはず。
 実は藤原氏の墓は「木幡の墓」といって今の京都宇治に決められた埋葬場所があったのだが、そこは墓所というより死体の遺棄場所と言ってもいい状況だったことが知られている。墓石もない。それでも、一族の葬送場所が決められていたというのは異例のことであったとされる。
 日本最初の公式火葬は8世紀初頭の僧道昭、そして持統天皇というのが定説で、それは「荼毘」という仏教由来のものであるのだが、薪を大量に用意しなくてはいけない火葬も以後それほど一般的になったわけではない。道長は火葬だったようだが、多くは土葬、そして風葬だった。
 庶民においては、決められた埋葬場所は無かった、と考えることもできる。
 
 人口が分散する地方農村部においてはそれも可能かもしれないが、平安京など人口密集地では、遺体の処理に困る状況も出てくる。
 「類聚三代格」によれば、871年に無秩序な葬送を禁止する触れが出ている。つまりこの頃は、無秩序な遺体遺棄が横行しており、葬地は無かったということになる。あちこちに遺体が放置されるような状況だと、衛生面からも問題が出てくる。羅城門の上に死体が置いてあったという今昔物語の話はよく知られるところ。
 その後、都では大規模な葬送地が出てくる。
 吉田兼好の徒然草に「あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん」という有名な一節があるが、京都においては化野や鳥辺野といった場所が葬送の地となってゆく。そこでは火葬される場合もあれば、ただ埋める、またそのまま放置するという様々な方法がとられた。
 「餓鬼草紙」という国宝の絵巻物があり、東京国立博物館が公開してくれている(→こちら)。中でもこちらこちらは、当時の葬送のサンプルになっている。(ただし閲覧注意)
 ただの土饅頭もあり、また石を積み上げ墳墓を形成するものもある。また上に木を植える、卒塔婆を立てる等々。五輪塔が設置されたものもあり、これは財力が必要だっただろう。そういったものも作れない層は、棺に入れたまま放置、また棺にも入れられずそのまま放置、など様々なパターンが見られる。しかし放置された遺体も、かわらけが傍に置かれていたりしているので、遺棄ではなく葬送儀礼は行われたのだろう。
 餓鬼草紙は平安末期の作とされるが、ここに五輪塔が描かれていることは注目に値するか。これが、墓石の嚆矢であるともとれる。
 
 こうした葬送の地は存在したが、墓地となるとその存在がなかなか文献、考古学調査ともども確認できないらしい。藤原氏こそ木幡墓地を持っていたが、一般社会では集合墓地はまだ形成されていなかったか。せいぜい「屋敷墓」とよばれる小規模のものくらいであったようだ。
 中世になると、ようやく集合墓地が登場する。京都には、大規模集合墓地である蓮台野が出来ていた。各地でも共同墓地が多く発掘されてきている。おそらくは、鎌倉仏教の隆盛と庶民への浸透に原因が考えられるのではないか。墓地がないと「墓参」も成立しないからである。
 阪神間では、川西の満願寺文書文永11年(1273)に、寺近くの池山の殺生禁制があり、「満願寺仏前たるの上、如法教数部奉納の地たり、諸人幽霊の墓所なり」とみえることで、墓地が存在したことがうかがわれる。西宮地域では現在のところ中世の共同墓地はみつかっていないが、可能性はある。
 中世墓に墓石が存在したかどうかは定かでない。供養塔として上層階級が五輪塔や宝篋印塔を建造したことは、西宮にも鎌倉時代のものと推定されるこれら石造物が残存していることでも知れる。だが、庶民はどうだったかはわからない。
 ただ、市内に非常に多くの一石五輪塔が残されている。これは宝篋印塔などよりも廉価で製作できただろう。西宮の研究者として著名な田岡香逸氏は、室町時代に入ると供養塔婆の小型化が顕著となり、数も相当に増加することを市史で言及されている。その原因を、仏教の庶民化、低い階層への浸透と、庶民層の経済的自立化が進んだことに見出されている。
 西宮市では、先年より地蔵祭祀の悉皆調査を行った。その調査結果を見て思うことは、地蔵として祀られている石造物の大半は、地蔵ではない小型の石仏や一石五輪塔であったということである。これらは、ほぼ墓石と考えていいのではないか。中世墓の痕跡ではないのか、と夢想することはできる。
 庶民の墓参の記録はなかなか見つからない。定期的な墓参の習慣はなかったとも考えられる。しかしながら、仏塔の小型化と増加は、仏教思想の庶民への浸透とみることが出来る。

 土地支配の形としては、日本では中世までは荘園が主体だった。西宮市域においても、瓦林荘や大市荘、山口荘などの荘園が知られる。
 それが、南北朝から室町期の乱世により支配関係が流動化し、民衆側も自己防衛の意味もあり住居を集合させるようになる。これが、村落の始まりであるともいえる。庶民が団結し自立のため形成した村落を惣村という。このあたりが、中世墓の始まりであるかもしれない。
 室町後期から戦国時代にかけて、土地の切り取りが常態化して荘園は解体する。天下統一を果たした豊臣秀吉は、太閤検地を実施し土地所有概念を一本化した。そして租税を村単位での納入とした。ここに、近世の村落が成立する。以来明治22年の町村制施行に至るまで、この村落単位は不動だった。
 江戸時代となって、幕府は政策として庶民をその村落に縛りつける。制度的には、宗門人別改帳の作成がある。キリスト教の禁制を徹底させるため、それまでも領主が作成していた戸籍台帳に宗旨の記載が必須となり、それを寺院に証明させることになった。これが寺請制度である。必然的に庶民はその寺の壇徒となり、檀那寺と村落が密接に関わるようになる。

 この寺請制度、檀家制度が、庶民への仏教思想の浸透に大いに寄与し、先祖供養の思想も確立し、近世の村落墓地の形成に至ったのではないかという説が強い。村ごとに埋葬地を決め、檀那寺による仏教的葬送儀礼が行われ、追善供養のため墓が建立されるようになったと。
 この考え方については、首肯する点も多い。僕は、そこに仏教思想と土着信仰の融合をみたい気もする。

 なお、江戸時代の墓制については「両墓制」の問題がある。
 遺体埋葬地と、供養のための墓地を分ける習俗のことであり、柳田國男以来民俗学分野で研究が進展した。
 僕は歴史さえ素人の横好きの域を出ないのに民俗学などさっぱりだが、研究書を読むと、この「埋め墓」と「詣り墓」を分ける習俗は、近畿地方にはかなり浸透していたと考えざるを得ない。西宮市域においても然りである。
 最上孝敬氏の著作「詣り墓」に、兵庫県の事例のひとつとして「民間伝承2巻10号(1937年)」に記載された報告が引かれている。
 西宮市広田 山田良隆氏の報告
 埋め墓は山のハカといい、子供を埋めるコバカと大人を埋めるオオバカが別になっていたが、今はコバカに葬らぬ家が多くなったという。詣り墓はウチバカといって寺の境内にある。昔は金満家と所に名のあるものよりほかもてなかったという。
 つまり、広田村の場合は詣り墓は豊乗寺に、埋め墓は村内に2ヶ所(以上)あったということになる。コバカとは子供の埋め墓のこと。
 これに対し、大社村誌は村墓地を以下のように記述する。
 本村墓地は從前部落に菩提寺内の外一乃至三ヶ所を有す、菩提寺内は其檀家戸主を埋葬し、其の他は檀家の家族又は宗派別に依るものにして、小墓と稱するは雇人、行倒人等の階級に属するものを埋葬するを例とせり
 記述が対立しているようにも見える。大墓小墓についてはもとより、両墓制に関する視点が完全に抜けている。
 ただし大社村誌は広田村だけに言及しているわけではなく、もちろんどちらが正しいとは判断できない。これは実地検分およ考察が必要である。
 何分にも習俗であり、村落単位で単墓、両墓が選択された可能性もある。

 前述の史家、田岡香逸氏は両墓制についても深く研究をされており、論文も発表されている。基本的な立場としては、両墓制が広く全国的に普及していたという考察であり、その起源を元禄ごろとされている。もちろん西宮において然りである。
 僕は何もわかるものではないが、埋め墓の想定を低湿地などに置かれている場合があるということは、少し考え込んでしまう。
 例えば鳴尾の場合、鎌倉時代の宝篋印塔や十三重石塔が存在したことから西方寺の境内域を従来よりの埋め墓であったと推定されている。つまり、中世は西方寺境内が埋め墓であり、近世にその場所を詣り墓に改装して、上鳴尾墓地を元禄期、新たな埋め墓にしたということだろうか。上鳴尾墓地にも中世の石造物が存在したことを考えると、難しい想定のようにも思われる。また西方寺域であれば、村落に近すぎはしないだろうか。
 同様に、中村の観音寺域もかつては埋め墓であり、のちに延宝年間の観音寺中興時に詣り墓として改め、それより南の低湿地(のちの申金墓地か)を埋め墓として新たに設置したという考察だが、これは村の発展によって埋め墓が集落近くになりすぎ、離したということだろうか。
 机上で考えてもわからないことだらけだ。もう申金墓地は存在していないのでそこに延宝以前の墓碑があったかどうかもわからず、よくわからない。西宮町の用海にあったとされるコバカは、果たして埋め墓だったのだろうか。埋め墓であったとすれば、広田村同様子墓だったのだろうか。

 それはともかくとして、田岡氏は両墓制の成立を元禄ころと想定される理由のひとつに、それより古い墓標がなかなか見当たらないこともあるとされている。寛永、元和に遡るものがないということが「なにより確かなよりどころ(市史7巻)」であると。
 市域におびただしい一石五輪塔は、墓標ではなく追善供養、作善の目的であったのか。そのあたり、本当によくわからないが、現在も一石五輪塔が墓地に数多く残されていることを考え、墓碑であった可能性も残ると一応は考えたい。その上で、村落墓地の成立が江戸時代を遡らないということは、その母体の村落の成立時期と檀家制度を考えれば、おそらくその通りだと考える。

 以上のことを、市域村落墓地を見聞する際の参考にしたい。
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posted by 凛太郎 at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記事 | 更新情報をチェックする
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