2011年12月10日

もうひとつの「ちょっと歴史っぽい西宮」補遺編

 2010年から2011年にかけて、ちょっと歴史っぽい西宮というサイトをやっていました。
 古代から現代にかけて、西宮市の歴史を感じさせる場所を自転車で駆け回っては、時系列順に感想と考察をまとめていくという趣旨のサイトです。いわば「西宮小旅行記」でした。
 この記事は、そのサイトのウラ記事その1です。(その2謎編はこちら)
 サイトは時代別に書いたのですが、各項それぞれテーマを設定したため、いくつかはどうも他と組み合わせにくいものもあり、撮ったままお蔵入りしてしまった画像が多くあります。そんなのをいくつか拾い出して、順不同に並べてみます。

 そもそもは歴史散策が主眼でしたので、その遺物が、どう歴史に関わってきたかということが分からないと書きにくいのです。ただ「古い」というだけですと文化財というくくりで、それを見てもなかなか過去に思いを馳せにくいわけで。
 瓦林の熊野神社は、えびす神社を別格とすれば、岡太神社と並んでサイトへの登場頻度がとても高かった神社だろうと思います。歴史を感じさせてくれる神社です。 
 しかしこういうのは、どう歴史と結びつけて書けばいいのかな。

 熊野鎌倉礎石.JPG熊野神社内白龍神社下 石塔(残欠)

 神社境内に、白龍神社が祀られています。実は白龍を祀っているのではなく、かつて老木に住んでいたとされる白蛇の霊を祀っているそうなのですがそれはさておき。その祠の下を覗いた画像なのです。縁の下(?)に、礎石のようなものがあります。
 この石は、鎌倉時代の十三重石塔の一部であると学者が鑑定されたそうです。ふはぁ古いものだなと思い、またこれだけで鎌倉時代と鑑定する学者はすごいなと思います。しかし、それしか感想が持てないのが残念です。そこに物語が付随していたならば。
 十三重石塔は鎌倉時代に多く作塔されたのか、鷲林寺の伝武田信玄墓、岡太神社の伝平重盛墓、上鳴尾墓地の伝佐々政治墓なども、鎌倉時代の作であると見られています。これだって、もしも瓦林正頼の墓の一部、なんて伝説があれば僕もいそいそと採り上げたのですが…。

 熊野神社石塔.JPG熊野神社内白龍神社脇 石塔(残欠)

 祠の隣に石塔の頭部が置いてあります。これにはなんの説明もありません。時代はいつなんだろう。まさか鎌倉時代のものではありますまい。
 それより、後方からスフィンクスかファラオの仮面みたいなのが顔を覗かせています。こっちのほうがどうも気になる(笑)。
 
 熊野神社橋寛政.JPG熊野神社 神橋(残欠)

 その隣には境内にあった神橋の一部が保存されています。これも、せっかくなので載せておきます。江戸時代、境内に流れていた御手洗川に架けられたものの一部とのことです。この川がもしも百間樋の分流であることがわかれば採り上げたのですが、よくわからず。また「寛政」の年号はあちこちにあるので、「元号コレクション」でも採り上げませんでした。熊野神社には市内一古い寛永灯籠が存し、寛政年号で採り上げることもなかろうと思いまして。
 その寛永灯籠の説明書が倒れているのが残念です。対の位置にある「元禄十一年十一月十一日灯籠」の説明板もない。惜しいな。熊野神社は郷土史家として高名な宮崎延光氏がかつて宮司をされていた社であるだけに。

 しかし、こういうものひとつひとつについて書いていたらキリがないので、取捨選択して出来るだけ簡略にしようと思います。

 上鳴尾墓地石塔.JPG上鳴尾墓地五輪卒塔婆形板碑 
 
 上鳴尾墓地北側にあります。今はこうして覆屋に納められていますが以前は野天だったような。南北朝時代のものと推定され、市指定文化財です。

 もっと古いものもあります。

 横穴石室.JPG横穴式石室の石材

 これは、中央図書館横駐車場に展示してある、八十塚古墳群剣谷二号墳の石室基礎に使われていたとされる石材です。
 市内古墳は、失われた前方後円墳の稲荷山・大塚古墳のことだけ書いて、現存している山の手の古墳群については全く触れませんでした。坂道をチャリで登るのが辛い、と書きましたが、散策し始めた頃、具足塚古墳を見学しようとして出来なかったため、古墳はみんな非公開なのかなと思ってバサっと切り捨ててしまったのです。
 
 老松の碑.JPG松原神社 老松の碑

 松原神社境内にある「老松の碑」です。「昭和二年三月枯朽」と刻まれています。本来漢織呉織の話の中で採り上げるべき石碑です。ですが「新西宮歴史散歩」を見ますと、染殿池の池畔にあった漢織呉織ゆかりの古松が昭和二年に枯れているのですが、それと「老松の碑」の松はまた別の松であるようにも読めます。なのでややこしいから言及しませんでした。

 小沢種春碑.JPG小沢種春歌碑

 染殿池のある喜多向稲荷には、小沢種春の歌碑もあります。弘化3年のものです。
 小沢種春という人物を僕は全然知りませんでしたので(汗)、調べましたら今津の人でした。なので学問文化のページで採りあげようとも思いましたが、種春は土着で学問の花を咲かせた飯田桂山らと異なり、戯作者柳園種春の顔を持ち、また学者としては伊予で塾を開いたことなどが知られ、今津文化とは少し違うかなと思って措きました。これも漢織呉織の時に書けばよかったなと。
 「千代もなを 残すみどりの色深く 綾はの松に染殿の池」

 歌碑、句碑といえば、苦楽園に山口誓子の句碑があります。
 
  山口誓子.JPG山口誓子句碑

 「虹の環を以って地上のものかこむ」 誓子
 「毛糸編み来世も夫にかく編まん」 波津女

 山口誓子は、昭和28年より西宮苦楽園に転居、この地を終の棲家としました。俳句などは素養のない僕にはよくわからないのですが、奥さんの句は優しさに溢れていいですね。なお山口誓子邸は、震災で倒壊したらしく。その邸跡に建立されたのがこの句碑です。山口誓子の句碑は、他に広田神社にもあります。「神代よりこの黒き闇木下闇」
 西宮には数多の詩碑、句碑、歌碑があります。僕が知っている範囲で申しますと、詞碑として「ラララ紅い花束車に積んで〜」という喜志邦三氏作詞の「春の唄」がアクタにあります。岩谷時子さんとかは無いのかな。
 詩碑は、夙川の片鉾池ほとりに八木重吉。このあたりは、歴史というより文学散歩ですね。
 句碑は、本編でも採り上げたえびす神社の芭蕉、鬼貫の天保年間成立句碑があります。えびすさんには他に芭蕉の「扇にて 酒くむかげや ちる桜 」の句碑も。
 俳句の世界は全く詳しくなく、よくわかりません。山口誓子くらいならば何とか知っていますが…。津門神社にいくつか句碑がありましたが、よく存じ上げなくて申し訳ありません。鳴尾八幡神社には俳句塚もありました。えびす神社内では、他に沖恵美酒神社に句碑がありましたがよく存じ上げません。申し訳ない。文学散歩ではないので勘弁していただきます。しかし阿波野青畝はどこかにあってもいいはずですが、まだ見たことがないなぁ…。
 えびす神社には江戸時代の千種有功の和歌を記した碑もありました。あれを歌碑と言えるかどうかはわかりませんが、歴史っぽいのでこれは本文で採り上げました。他に、神馬の歌碑もありますね。
 近代の歌は、下村海南の歌碑は本文で言及しました。
 歌碑といえば、何といっても西田公園の万葉植物苑です。万葉集といえば犬養孝氏で、全国に万葉集の歌碑を建立されていますが、ここでは草木花の歌を72首選び、対応する植物の傍に設置しています。

 西田公園碑.JPG西田公園万葉歌碑

 たくさんあってひとつひとつ見ていたら日が暮れます。
 万葉集はもちろん日本文学のひとつの究極の形ですが、同時に史料でもあります。古代は史料が実に少ないため、万葉の歌から史実を読み取らなければならない場合があります。
 万葉の歌碑は、西田公園だけではなく、意外なところにありました。武庫川団地です。

 武庫団歌碑1.JPG武庫団万葉歌碑1

 朝びらき漕ぎ出て来れば武庫の浦の潮干の潟に鶴が声すも

 武庫団歌碑2.JPG武庫団万葉歌碑2

 武庫の海の庭よくあらし漁する海人の釣船浪の上ゆ見ゆ
 
 武庫団歌碑3.JPG武庫団万葉歌碑3 

 武庫川の水脈を早みと赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも
 いずれも万葉集です。武庫団にこういうものがあるとは、ウロウロするまで知りませんでしたね。
 本編でもふれましたが、「武庫」とはいったいどこを示すのか、という議論はあるわけです。こういう歌碑は、文学的価値に加えて「武庫は西宮だよっ」と主張していると思うと歴史的色彩を強めますね。

 さて、ちょっとかわって。
 僕は、神社に行けば石造物の建立年号を見て、これは寛政だこれは享保だと悦に入っていたわけですが(→元号コレクション)、江戸時代で最も古い「慶長」年号が六甲山神社の本殿である石宝殿に刻まれているということを知り、これは行かねばならぬとある日、足を伸ばしたのです。

 石宝殿1.JPG石宝殿参道

 もちろん自転車で行ったわけではありません。ママチャリで行ける場所ではなく(汗)。芦有ドライブウェイに宝殿インターがありますが、その近くです。西宮・芦屋・神戸の3境が交わるところ。もう少し行けば、六甲山頂ですね。
 市境はどのように決定されているのかは知りませんが、この六甲山神社石宝殿だけは、西宮市が死守した感じがします。
 この市境標識のある県道16号線に、参道入り口があります。ここから登ります。しばらく行けば到着します。ふぅ。

 石宝殿3.JPG六甲山神社石宝殿

 しかし、着いてみてわかったのですが、当然御神殿にはこれ以上近づくことは叶わず。そらそうやなぁ。したがって慶長の年号もどうなってるのはわかりませんでした(汗)。
 家内安全無病息災開運厄除商売繁盛を祈願して、山を降ります。

 他、採り上げられなかったものとして、慰霊碑があります。阪神大水害の供養塔、太平洋戦争に関わる慰霊碑、阪神大震災の慰霊モニュメントなどは本編で書きましたが、それ以外のもの。
 これは、甲東小学校の南にある慰霊碑です。

 甲東慰霊碑.JPG神呪町慰霊碑
 
 こちらの慰霊碑は、市内ではかなり立派なものです。戦争遺跡の話のときに市内に残る慰霊碑のひとつとして採り上げようと思ったのですが、建立年が昭和2年と読めます。あの項では主として太平洋戦争を中心に書いていたため、載せませんでした。ただ、思いが詰まった碑であることは間違いありません。

 これは、夙川の日切地蔵尊…国道2号線から夙川の西岸を北に上がって突き当たりにおられますが、その地蔵堂の脇にあった慰霊塔です。

 夙川慰霊塔.JPG御茶家所町慰霊塔

 建立年は昭和16年。まだ太平洋戦争は終わっていません。正面に「日清戰役 日露戰役 支那事變 往今戰役」と刻まれ「各戰病死者英靈」とされていますので、今までの全ての戦病没者に対しての慰霊碑とみていいでしょう。ただ、この慰霊碑はそれだけではありませんでした。脇面に「鐵道死者之靈」とも刻み付けられていたのが目に。
 この鉄道横死者とは、工事中の事故、或いは轢死者も含むのでしょうか。自殺は当時あったのか。よくわかりませんが、この慰霊塔の真後ろをJRは走っています。

 平松町のマンボウ。僕は細雪マンボウと呼んでいます。

 まんぼう.JPG細雪マンボウ

 マンボウとは西宮で言うところの「小さな人道トンネル」で、JR路線に阻まれる南北の行き来のために市内に3ヶ所あります。そのうち甲子園マンボウ、大谷マンボウはそれぞれ登場機会があったのですが、この最も有名な平松町のマンボウは登場させそこねました。
 このマンボウが何故有名かと言えば、谷崎潤一郎の「細雪」に登場するからです
「さうだっか、この近所に来てなさるのんか。そんならいっぺん僕所へ遊びに来たまえ、僕所はあのガードを越えた直きそこだす」と言ひながら、そのマンボウの入口を指して「君、一本松知ってなさるやろ、僕所はあの一本松の傍やよって直き分かります。」
 四女妙子の恋人である奥畑は、常磐町の一本松の近くに住んでいたようです。で、阪神電車国道線に乗って通うわけです。
 しかしこれでは文学散歩であって、歴史散歩ではありません。
 さて、この細雪マンボウ内は、何と板敷きです。木道です。この床の下に何かがあるわけです。それは、用水路だと思われます。マンボウというものはそもそも、鉄道の盛土の下に用水路を通すためのトンネルであったと考えられます。
 甲子園マンボウは菰(コモ)池(現武庫川浄水場)からの用水溝の可能性が高く、大谷マンボウはすぐ北側に溜め池である皿池があり(現在皿池は公園化)、そこからの水路だったことは推定できます。川の堤防を越えるために徐々にレールの高度を上げなければならなかったこういう場所では、川(用水路)を橋梁で跨がず、このような形になったものと推定しています。それを、人道トンネルに改修した、と。
 じゃこの細雪マンボウはどの用水路を通していたのでしょうか。それをちゃんと探っていません。
 ここに限らず、僕の市内の用水路確認は百間樋を中心とした甲東、瓦木、今津、鳴尾に集中して、西の社家郷山からの水利については全く出来ていません。本来、六湛寺川や洗戎川がどこから流れてきてどのように暗渠化されてきたか、また用水路はどのようにはりめぐらされているのか、ちゃんと調べたいと思っていました。しかし、もう手一杯です(汗)。今後の課題にしたいと思っています。
 その市内西側の用水路探索が出来なかったので、細雪マンボウは文学散歩的位置づけに止まってしまったのです。残念でした。

 街の更新は、時代が新しくなるにつれ加速度を増します。ことに戦災、震災を経た西宮は、ちょっと昔のことでもなかなか痕跡を残してくれません。
 西宮の懐古写真集などを見ていますと、西宮って昔は劇場や映画館がいっぱいあったんだなと思います。僕がこの街に来た頃には、そういうものはひとつもありませんでした。現在西宮ガーデンズにシネコンが来たことで、劇場空白の街ではなくなりましたけれども。

 栄徳稲荷.JPG甲子園劇場

 甲子園口センター街の入り口にある栄徳稲荷さんの石灯籠に刻まれた「甲子園劇場」の文字。映画館だったのか何なのかは存じ上げませんが、どこらへんにあったんでしょうかね。パチンコ屋さんあたりかな。
 こういうのは古い住宅地図などで調べないとわからないですよね。いつ無くなったのでしょうか。娯楽のニーズが代わった頃か、それとも震災が原因か。
 追記:この甲子園劇場については、今津っ子さんが甲子園口商店街にかつて存在した映画館について詳細に解説して下さっています。ここには3つの映画館があり、甲子園劇場はそのひとつだったということです。
 →今津いまむかし物語:甲子園劇場 いつもお世話になりありがとうございます。

 ある日、2号線を西に向かっていたとき、産所町交差点でふと見かけました。

 西宮劇場.JPG西宮劇場

 西宮の町にも、いろいろなものがあったのでしょうね。前に江戸時代の幕府勤番所を尋ねて戸田町を歩いたとき、勤番所跡は「三浦座」という芝居の劇場になったという話を「町名の話」で読んだと書きました。「敷島劇場」「戎座」「花月」などいろいろ存在したようですね。もともと傀儡師の町ですからそういう伝統はあったのでしょうけれども。
 みんな無くなってしまったようですね。
 
 中国街道を追いかけて、西国街道との合流点にさしかかろうとするとき、ふと見上げるとこんなのを見つけ。文字が欠けています。

 東川市場.JPG〇川市場

 ご近所の方に尋ねましたらやはり「東川市場」だということ。
 伺うと、東川市場は「西宮で最も古い市場やったんや」と。ところが現在は、残念ながら店は一軒も営業されていません。「スーパーとかが出てきて、あかんようになってしまいましたな」
 時代の流れではあるのでしょうけれどもね。震災の影響もあったのかもしれません。

 東川.JPG東川市場(跡)

 「頭上注意」の文言。入ってみましたら中は、路が十字に交差してかつての賑わいが感じられましたが真っ暗です。ただ強い郷愁みたいなものは感ぜられ、ちゃんとしたカメラマンの方ならおそらくいい被写体にされる場所だと思います。
 僕の家には、壁に大きな西宮市街地図が貼ってあります。引っ越してきたときに入手して、今もそのままです。市制70周年記念のものですから(70周年の年が震災の年となった)、地図が作成されたのはもちろん震災前でしょう。その地図にはまだ西宮球場や甲子園競輪場があり、山手幹線は貫通していません。そして、市内に多くの市場があったことがしるされています。甲東園市場。門戸市場。瓦木市場。香櫨園市場。入船市場。北口市場。阪急市場。小松市場。等々。あちらこちらに地図記号の市場マークがあります。
 スーパーマーケットの進出が市場を衰退へ導いたのは事実だと思いますが、これだけの市場が地図に示されているということは、決定的なのはやはり震災ではなかったのでしょうか。
 地図上の市場記号の場所をメモして、近くへ行ったら寄ることにしていましたが、残念ながら現在ではほとんど痕跡をとどめていません。産所町の阪神市場などは、僕が西宮に来た頃はなんだかそれっぽい雰囲気がまだあったんですが(富士銀行に来た時に時々見ていた)、今は無くなってしまいましたね。
 残っているのは鳴尾の新ことぶき市場。しかし、これも表に出ている店だけかも。中は明かりが消えていますので。笠屋町のみやこ商店街にある市場も、まだ機能しているか。それから結善町の夙北市場も、完全に閉まった感じはなさそう。しかし、活気があるとはなかなか言いにくい状況かな。苦楽園センターがいつからあるのかは存じ上げませんが、あそこは市場の雰囲気があり盛況です。しかしそれ以外は…。
 そうしてほとんどの市場は、消えました。たいていは完全に消えてしまって、形を残しているところはかなり珍しい。東川市場はそういう貴重な痕跡です。他には、久寿川市場がありし日の姿をとどめています。

 久寿川.JPG久寿川市場(跡)

 久寿川市場の北にあけぼの市場もありましたが、こちらは往時の雰囲気がわかる程度です。
 いろんなものが、消えていったのですね。

 また話はかわってスポーツ系の話題。
 こちらは、上鳴尾墓地にある小野川調五郎関のお墓です。

 小野川墓.JPG小野川調五郎墓

 相撲は好きなのですが、小野川調五郎というお相撲さんは全く知りませんでした。このお墓は郷土資料等に載っていますので、どこかで採りあげようと思っていたのですが、どういう方なのかよくわからない。
 小野川という四股名のお相撲さんは、伝説の横綱谷風の63連勝という大記録を止めた名力士として知られています。谷風、雷電と並ぶ江戸時代の大名跡です。おそらくその流れの方だということくらいしか想像がつきません。
 相撲関係の本から大阪相撲のことを知りましたが、この十四代目については勉強不足ではっきりしたことはわからず。結局ネットに頼りました。
相撲評論家之頁」さんのこちらのページに詳細が書かれています。ただ、wikipediaによりますと八陣調五郎は12代目であり、なぜ14代と刻まれているのかはよくわかりません。
 上記サイト(本当に充実した内容で恐れ入ります)には「鳴尾潟栄太郎の養子になった」という話があり感じ入りました。鳴尾潟という四股名があったんだなあ。最近のお相撲さんの四股名はただ語呂合わせとか強そうな漢字を並べただけとかで日頃より残念に思っています。こういう「鳴尾潟」のように郷土に祝福され後押しされるような四股名が復活して欲しいものだと思います。


 甲子園球場の広場に、ベーブルース来日の記念レリーフがあります。

 ベーブルース.JPGベーブルース

 昭和9年、ベーブルース、ルーゲーリックら野球の全米オールスター選手一行が来日しました。甲子園球場を見たルースは「Too Large!(デカ過ぎる)」とびっくりしたと言います。
 戦後、昭和24年に、前年のルース死去を偲んで作成されたものです。

 さて、最後は阪神甲子園駅出たところのケンタッキーフライドチキン内です。
 必ずカロリーの摂り過ぎになるのでケンタッキーには寄らないようにしているのですが、たまに誘惑に負けます。それにしても、ダイエーのフードコートにも球場内にもありますし、このあたりケンタッキーの密度濃すぎ。

 カーネル後姿.JPG甦ったカーネルサンダース

 店内からの撮影ですが、後姿で恐縮です。ひどく汚れたカーネルサンダース像が展示してありますが、このカーネルサンダースさん、全国的に有名ですね。そう、あの「呪いのカーネルサンダース」です。
 1985年、阪神が優勝した時に狂乱のファンがケンタッキー道頓堀店のカーネル像を「バースに似てる」と胴上げし、道頓堀川に投げ込みました。カーネルさんは浮上せず行方不明となりました。阪神ファンの悪行への報いか、これ以降阪神は18年間優勝出来ませんでした。これが「カーネルサンダースの呪い」です。
 そのカーネルさん、2009年に浚渫中に発見されました。ヘドロの中からバラバラ死体のように見つかり繋ぎ合わされたそうですが、既にケンタッキー道頓堀店は無く、この阪神甲子園店にやってきたようです。あ、もちろんこれは展示してあるだけで、この店には別にちゃんとしたカーネルサンダースさんはいます。
 これ、1985年の因縁がありますので、歴史的と言えば歴史的なものではあるんですが、どう解釈していいのか判断に迷います。集団心理の恐ろしさと、都市伝説の意外な影響力というものを語るときには、いいサンプルかもしれませんけれども。

 以上「ちょっと歴史っぽい西宮」補遺編でした。

 
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posted by 凛太郎 at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅記事 | 更新情報をチェックする
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