2009年08月21日

僕の旅番外編・萩のマニアック歴史ポイント

本記事「僕の旅 山口県」に書いたとおり、山口にはたびたびお邪魔して旅を楽しんでいる。が、どうしても旅先が山陽側に偏る。交通の便が最も大きな要因だが。下関などに比べて萩をじっくり廻っていないことに気がつき、機会を得たので歩いてみた。旅の行程については別ブログ記事「暑い夏 萩にて」を参照していただきたいが、幕末の史跡中心に観光をした。
旅をする以前、ブログで幕末関係の記事を書いていて、その総仕上げのつもりでもある。以下当該記事。
 ・もしも井伊直弼の大老就任が無かったら  
 ・もしも安政の大獄が無かったら
 ・もしも孝明天皇が攘夷論者でなかったら

萩は、街の規模はさほど大きくない。2005年の合併で市域は広くなったが、中心の街まで広がるわけでもない。もちろん訪れるたびに変貌はしていて、特に262号線萩バイパスには驚き、市民球場が無くなって有料駐車場と化していたのは残念だったが(街の真ん中に無料駐車場がある素晴らしい環境だったのだが)、それらは致命的な変化でもない。
萩で最も素晴らしいのは、特に中心部では、城下町時代からの町割りを壊していないところだろう。したがって、道が狭い。自動車が走れる仕様になっていない。これは見識だろう。町自体を保存しようという気概が感じられる。

萩の町は、阿武川に端を発する橋本川と松本川に挟まれた三角州に存する。そのため町中にも小川が多く美しい。おそらく苦労して水を御してきたのだろう。
松本川の東は椿東地区と呼ばれる。そこから歩き出す。
ここには、松下村塾がある。萩では、城址、菊屋横丁などの城下町武家屋敷とならんで観光客の多い場所である。盆の日曜であり確かに人でごったがえしている。
松陰神社の鳥居をくぐる前に、駐車場横に石碑がある。

薩長土碑.jpg

「薩長土連合密議之所」と記されている。岸信介の書らしい。
文久二年に坂本龍馬はんが、武市さんの書簡を持って久坂玄端を訪ねた。同時に薩摩から田上藤七も来萩しており、田上、久坂、龍馬と薩長土の三藩士が密議を交わしたことになっている。
しかし、龍馬はんはこの時点ではまだ武市さんの使い走りと言ってよく、とても「倒幕の密議」など出来たとは思えない。久坂の演説を聞いた程度だっただろう。薩長土連合とは相当に誇大広告ぽいが、萩に龍馬はんの足跡を探すとここくらいしかない。

松下村塾.jpg

松下村塾は昔のまま建っている。ここで松陰は数多くの志士を生み出した。この小さな離れが歴史を大きく転回させることになったとは。この離れの塾が稼動していたのは一年程度であるのに。
母屋もすぐそばに残る。杉家(松陰の実家)の旧宅で、借家だった。

杉家旧宅裏.jpg

裏側に、松陰が謹慎させられていた幽囚室がある。ここから松陰の松下村塾は始まった。

松陰神社への入り口、バス停の傍に松浦松洞旧宅跡の碑が建つ。

松浦松洞生家.jpg

松浦松洞は門下生の一人。長井雅楽排斥にかかわり暗殺を試みたが果たせず、自害した。そもそも画家を志していて、今に残るあの松陰像を描いた人物として高名である。

松陰神社の南側に沿った道を行くと、ほどなく吉田稔麿生家跡がある。

吉田稔麿生家.jpg

松下村塾三秀の一人として名高い吉田稔麿。歩いてみるとご近所であったことがわかる。
稔麿は早くから俊才を謳われ松陰にも「高等の人物なり」と評された。尊攘運動に投じ活躍したが、池田屋事件で若き命を落とした。享年24歳。
稔麿の死には諸説あり、池田屋で新撰組に襲われたものの脱出し藩邸に急を知らせ、そのまま取って返し闘死したという説、藩邸が閉ざされていたため自刃したという説、襲撃時には池田屋を出て既に藩邸に戻っていたが急を聞いて飛び出し闘死したという説などがあり確定していない。だが、いずれにせよ稔麿は助かろうと思えば助かったのであり、それを良しとせず仲間と殉じた稔麿を蒼いということも出来るが、その涼やかな人物像を全くのところ嫌いになれない。

稔麿の家から歩いてすぐ、同じ天保12年生まれの若者がやはり松下村塾に通っていた。伊藤博文である。

伊藤博文生家1.jpg

ここには銅像が建ち、さらに隣に東京の邸宅も移築されている。石碑ひとつの稔麿旧宅跡とつい比べてしまう。が、それは致し方ないかもしれない。伊藤博文は日本の初代内閣総理大臣である。
松陰が伊藤を「周旋の才あり」と評した。その眼力は鋭い。高杉挙兵の際に奇兵隊よりも早く力士隊を率いて参戦し、征韓論では根回しを一手に引き受け西郷を失脚させ、大久保死後は日本を切り回した人物。品川弥二郎が「稔麿が存命であれば据え置きの総理大臣だろう」と評したが、友誼に殉じた稔麿と、政治家として抜群の才を発揮した清濁併せ呑む伊藤を比較するのは難しい。

もうしばらく歩くと、玉木文之進の旧宅が残されている。松下村塾発祥の地の石碑が建つ。そもそも松下村塾は玉木文之進が開き、松陰がその名を受け継いだ。

玉木文之進生家.jpg

松陰の叔父であり、幼少期の松陰を厳しく教育したことで知られる。松陰の高潔な人物像は玉木文之進が造り上げたとも言われる。明治になって萩の乱に自ら連座する形で自害した。

ここから登りの道があり、吉田松陰生誕地・墓所に続いている。山の中腹とも言える場所である。
山県有朋による「吉田松陰先生誕生之地」の碑が建つ。山県の絶筆だそうだ。

松陰生誕地.jpg

松陰はこの地で生まれ、後実家は今も松陰神社に残る前述の家に転居した。
ここからは萩の街が一望である。

萩全景.jpg

傍に墓所がある。吉田松陰はじめ、実家である杉家、養子先の吉田家、親戚筋の玉木家、久坂家(久坂玄瑞は松陰の妹と結婚している)等の墓がずらりと並ぶ。きちんと案内されているので、それぞれに手を合わせる。

松陰墓.jpg

前列右から三番目が松蔭の墓である。その後方に、画像では見にくいが「東行暢夫」と刻まれた墓がある。高杉晋作のことである。高杉の墓は下関吉田にあるはずだが、招魂墓はあちこちにあるなあ。なお、写っていないが隣に吉田稔麿の墓もある。久坂玄瑞墓も併せ松門三秀がここには揃っている。

二十一回猛士墓.jpg

松陰の墓には「二十一回猛士」と刻まれている。
二十一回とは何か。実家の「杉」は、十と八と三に分解され、二十一となる。また養子先の「吉田」も、士(十一)と十を含み二十一。これに名の「寅」次郎の勇猛さを加えて「二十一回猛士」という号を持った。生涯で21回の事を成そうと誓っていたが、途中で斃れた。

墓所を降りると、毛利家の菩提寺である東光寺がある。

東光寺三門.jpg

重要文化財である荘厳な三門がそびえる。本堂奥に、毛利家廟所がある。

毛利家歴代墓.jpg

森閑とした中に三代毛利吉就から奇数代の藩主が眠っている。

その墓所の前に「元治甲子殉難烈士墓所」があり、第一次長州征伐の折に、降伏、恭順のために死を賜った重臣たちの招魂墓が並ぶ。

福原越後他顕彰墓.jpg

分かりにくいが、右から益田右衛門介、福原越後、国司信濃、清水清太郎、周布政之助である。益田、福原、国司は禁門の変で軍を率いた家老であり、幕軍(西郷隆盛が参謀)によって首を差し出せと命じられ自害した。周布は藩改革派のリーダー的存在であり、後に責任をとって自害した。清水も保守派の命により自害した。
他、十一烈士と総称される、改革派として処刑された竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛、宍戸左馬介、前田孫右衛門、毛利登人、山田亦介、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島剛蔵らの招魂墓も並ぶ。 
ここを歩いていたときは黄昏が近づく時刻だった。佇んでいると突然の驟雨が僕を濡らした。手を合わせるより先にカメラでバシャバシャと撮っていたことを反省した。

街の中心部に移動するため松本川を西へ渡る。
その渡る手前、松本大橋のたもとを少し南へ入る。品川弥二郎生誕地の碑がある。

品川弥二郎生家.jpg

松下村塾にも程近い。品川は後に内務大臣も務めたが、薩長同盟における長州側の人物として僕は認識している。また、「トコトンヤレ節」は日本の軍歌の元祖とも、流行歌の元祖とも言われるがその作詞者であるとも言われる。

品川邸跡からさらに川沿いの小道を入ったところが来島良蔵の生誕地だとガイドブックに書いてあったのだが、それらしき碑も見当たらない。

来原良蔵生家.jpg

おそらくこのへんではないかと勝手に考える。新道が出来たので撤去されたのかと思ったが、聞いてみると昔から碑などはなかったらしい。
松陰の友として知られ、松陰脱藩の折など逸話も多い。伊藤博文を松陰に引き合わせたのも来原良蔵とも言われる。政治的には目立った活動も残せず自害して終わった。

川を渡る。
町中の細い道へ入ってゆく。おそらく区画は幕末の頃とさほど変わらないだろう。周布政之助邸宅跡がある。石碑が残るのみである。

周布政之助家.jpg

長州藩は内部抗争が激しかった。
これは他の多くの雄藩にも言えることであり、水戸藩も薩摩藩も土佐藩も同じことである。水戸藩はその内部抗争で藩としての実力を失った。だが長州は、その内部抗争の中から維新回天の原動力が生まれた。不思議なことだが、そのため多くの人材をも失った。
一般的には、改革派として村田清風、保守派として坪井九右衛門がいて、村田派の流れとして周布政之助(のち木戸孝允)、坪井派の流れとして椋梨藤太が存在すると理解されるが、そう簡単なものではないような気もする。
周布は松陰とその門下生を積極登用し庇護したとされ、そのことから後に高杉晋作が周布以下改革派を「正義派」椋梨以下保守派を「俗論派」と命名し決め付けたことから色分けがはっきりし、椋梨はまるで悪の権化のような扱いを今に至っても受けているが、椋梨らが居なければ長州藩は維新を待たずして潰れていた可能性もある。
閑話休題。周布は松陰門下の尊攘運動を支持し擁護したが、その実は開国論者であり、秘密裏に伊藤博文や井上馨らを洋行させている。言わば、尊皇攘夷を旗印にだけ利用した。これは政治力とも言える。
前述したように、周布は第一次長州征伐の後、自害した。

その向かいには入江九一、野村靖兄弟の生家跡がある。

入江九一生家.jpg

入江九一は、松陰門下三秀に加えて「四天王」とも称された逸材であったが、禁門の変でその命を散らした。野村靖はその弟でありやはり松門。新政府で要職を歴任した。入江兄弟は、最後まで松陰に忠実であったとされているが、また新説も出てきているようである。今後の研究を楽しみにしている。

南下すると、国道262号線バイパスの脇に、長井雅楽旧宅跡の碑がぽつりと建つ。
バイパスは最近整備された新道であり、この碑も移動を余儀なくされたのだろうか。継ぎ合わせた痕もあり、乱暴に扱われたのかとも思う。

長井雅楽生家.jpg

「航海遠略策」という「正論」で華々しい活躍をした長井だが、結局は久坂ら尊攘論者に引き摺り降ろされて切腹を命じられた。不遇としか言いようが無い。

長井雅楽は結局「俗論派」の範疇とされている。どうしても二大派閥のどちらかに押し込めねばならないらしいが、その抗争の中、珍しく「中間派」として存在したのが広沢真臣である。
旧宅跡に石碑が建つ。長井雅楽碑より西南方面である。

広沢真臣生家.jpg

波多野金吾と名乗っていた時代、第一次長州征伐の後保守派(俗論派)に投獄されたが、結局正義派でもなかったために釈放されている。このあと、また正義派が実権を握るが、多くが処刑され人材が不足し、広沢の登板となった。帰藩した木戸孝允とともに藩政の中枢を担うことになる。
維新政府でも活躍したが、明治4年暗殺される。犯人不明で謎が多く残されるが、龍馬はんや姉小路公知事件よりも地味な扱いである。これ、掘り下げれば相当の思惑が浮かびそうなのだが。

そこからさらに南下する。山県有朋生誕地の碑がそそり立っている。

山県有朋生家.jpg

内閣総理大臣、参謀総長、枢密院議長、元帥。陸軍の巨魁。それは碑がそそり立っても不思議ではない経歴だが、これを山県は生前に建てたと言う。よっぽどの名誉欲があったのか。いや、山県はここまで登りつめた人物だが、足軽出身という出自を地元では揶揄する人間も多く、それに対抗する意味で建立したとも言われる。

松本川と橋本川の合流地点が近づくこのあたりは、三角州の頂点であり、藍場川流れる風景が美しい。

藍場川.jpg

桂太郎の生家も残っており訪問したが、幕末史とは少し離れるので割愛する。同様に田中義一なども時代が異なるのでパス。山口県は総理を8人出した県として全国一であり、戦後の岸、佐藤、安倍晋三はともかく、萩から山県、桂、田中の3名、伊藤も入れれば過半数となる。寺内正毅も長州藩閥であり、近代史における割合が実に大きい。

三角州の先まで行き当たったので、松本川に沿って再び北上する。萩橋のたもと近く、前原一誠旧宅が残っている。

前原一誠生家.jpg

画像をクリックして拡大してもらえば分かるが、表札が依然として「前原」となっている。旧宅と言ってもいいのだろうかと気になる。
その前原一誠は、ほど近くの弘法寺に眠る。

前原一誠墓.jpg

寺の墓域は大きくなく、すぐに見つけることが出来る。
松陰門下であるが「萩の乱」の首魁として処刑された。

町中へ歩を進める。松陰が収監されたことで有名な野山獄跡がある。

野山獄.jpg

このように僅かなスペースが残されているが、ここは説明板によると獄舎ではなく刑場であった場所のようだ。藩内抗争のため、多くの人がここで斬られている。前述の十一烈士の碑も建つ。もちろん俗論派も多くこの場所で命を落としている。そう考えるとちょっと寒くなる。
向かって左方面に松陰も居た獄舎があったようだ。

道を隔てて向かい側に、岩倉獄跡がある。

岩倉獄.jpg

野山獄が士分牢であったのに対し、岩倉獄はそれより下の身分を収監した。環境は野山獄と比べて劣悪だったとされる。松陰第一の弟子であり、共に密航を企てた金子重輔は足軽身分で脱藩浪人であったためこちらに入った。まもなく獄死した。松陰の嘆きは尋常でなかったと言われる。金子重輔絶命之處碑が建つ。

その金子重輔の墓は、保福寺にある。

金子重輔墓.jpg

萩の寺にある墓は、実に見つけにくい。たいていは案内がなく、一つ一つ墓石を確認して歩かねばならないからだ。戒名しか刻まれてなくて、結局分からず断念してしまった寺も多い。金子重輔の墓は、墓地への坂を上って右手(東)に進み、中ほどで少し北方向にゆくと東面してある。
ここで金子重輔の墓を探して歩いていたら、山県大華の墓を偶然見つけて驚いた。

山縣大華墓.jpg

藩校明倫館の学頭を努めた碩学であるが、松陰と論争を広げたことで僕はその名を知っている程度だが。当時山県大華は80代、松陰は20代であり、山県も閉口しただろう。

近くの海潮寺に、長井雅楽の墓があった。

長井雅楽墓.jpg

墓地に入ってすぐ右手に少し歩くとある。画像で見れば、建物の横手にあることが分かると思う。「大江姓 長井時庸」としっかり記され没年の記載もあったので間違いない。大江とは大江広元の大江で、毛利氏の祖である。長井家も毛利家と同族だった。
以前にも書いたが、長井の「航海遠略策」は結局正論だった。長井追い落としは尊攘派の難癖であると思っている。無念の死であった。
海潮寺には十一烈士の一人である渡辺内蔵太の墓もある。長井よりも立派でありすぐに分かる。

長寿寺には、入江九一の墓があった。

入江九一墓.jpg

ここの墓地も広いが、本堂裏手の東側に一族と共に眠っている。真ん中が九一の墓である。

寺めぐりの途中に、金子重輔の旧宅跡碑があった。

金子重輔生家.jpg

このあたりは寺も多いが、町割りからいくと士分ではなく町人が住む。金子の父も商人としてここに住んだ。金子は後に足軽となったが、結局武士とは認められず岩倉獄に収監された。

その程近く、光源寺を見つける。ここに坪井九右衛門の墓があると聞いた。

坪井九右衛門墓.jpg

本堂の真裏に坪井の名がある墓が並ぶ。どれが九右衛門の墓か特定できなかった。
俗論派の領袖として、坪井を評価しない人が多い。司馬遼太郎氏の小説などで「反動政治家」として描かれ敵役となっているせいだろう。
そもそも坪井は、正義派の祖と言われる村田清風と藩政改革を共に行った。坪井は椋梨藤太と直系であるかのように解釈されているが必ずしもそうでもない。交易を重視し、藩政に尽くした。功労者の一人とも言えるが、藩を守らんとするため尊攘派との対立があり、過激尊攘派が藩を席巻すると孤立し、あの野山獄で処刑された。
高杉晋作の言う正義派、ひいては尊攘派が最終的に長州を代表し、さらには幕府を倒し明治政府を興したことで、抗争に敗れた多くの人々は悪の刻印を打たれる。「勝てば官軍」とはよく言ったものだが、世の中勧善懲悪で全て説明できるものではない。

悪の権化のように言われる椋梨藤太もそうである。椋梨は、禁門の変で長州敗退の後政権を握った。第一次長州征伐が迫り、藩は風前の灯火状態である。椋梨は幕府に完全恭順し、正義派を粛清した。確かにやり方は過激であると捉えることも出来るし、藩は多くの人材を失った。だが、そうしなければ長州藩自体があのとき潰れていたかもしれないのだ。
椋梨は、高杉晋作の挙兵によって藩内抗争に破れ、やはり野山獄で斬首となった。
椋梨の墓は徳隣寺にあると聞いていたものの、発見できずに終わった。帰ってから検索してみたら、ちゃんとあったらしい。→こちらの方のサイトページ参照
やはり観光旅行・歴史散策はしっかり勉強してからでないといかんよなあ。だが、坪井にせよ椋梨にせよ、寺前に案内は無かった。入江九一や金子重輔はちゃんと書かれてあったのだが。

道を西方向に向かえば、武家屋敷町にあたる。松陰神社周辺以来、とんと観光客を見かけなかったが、ここにはたくさんいらっしゃる。町並みが美しく保存されているポイントである。古びた土塀、そして夏みかんが彩りを添える場所だが、残念ながら夏みかんの季節ではない。

江戸屋横丁.jpg

これは江戸屋横丁だが、人の流れが切れるまでずいぶんと待った。
ここに、木戸孝允旧宅が保存されている。

木戸孝允生家.jpg

有料になっていたのは知らなかった。ここには過去数度入っているので割愛した。この道には他に青木周弼旧宅や円政寺もある。観光名所となっている様子。

二筋向こうが菊屋横丁である。日本の道100選としても知られる。

菊屋横丁.jpg

こちらの方が人が切れなかった。車が一台どうしても退いてくれなかったのが残念だ。画像は、内閣総理大臣田中義一生誕地前からである。
人が多いのは、高杉晋作旧宅があるからである。若い女性が記念撮影に余念が無い。「晋作萌え」だろうか。さすがに人気がある。タイミングかもしれないが、木戸孝允邸は年配の人が多かったように思うのだが。

高杉晋作生家.jpg

高杉晋作は、下関の方が史跡が多い。下関を歩くとまるで晋作巡りになってしまう。

さらに西に進むと堀内に入る。ここは、大部分が萩城三の丸だった場所で、上級武士が住み、史跡も数多い。旧周布家長屋門、旧益田家物見矢倉、旧児玉家長屋と名だたる見どころが並ぶ。
その中で、幕末とはちょっと時代がずれるが、天樹院墓地へと参る。ここは、毛利輝元の墓所である。

天樹院.jpg

森閑とした佇まいである。合掌。
ずいぶん前、もしも毛利輝元が大坂城を明け渡さなかったらという記事を書いたことがあったが、あのときうまく立ち回っていれば、この萩という町は城下町にはならなかった。歴史はだから面白い。

町中を歩く。萩高校と道を隔てて北側に、福原家萩屋敷門が残されている。

福原越後.jpg

幕末時にはここから福原越後が家老として出て、禁門の変では司令として兵を率いて京都に向かった。だが破れ、藩の幕府恭順の方針に従い首を差し出した。享年50歳。
この時、恭順のため自害させられたのは家老三名である。福原の他、益田右衛門介、国司信濃。
その国司信濃。福原屋敷門にほど近い、萩西中学校の北西角に旧宅跡碑が建つ。

国司信濃.jpg

国司信濃も禁門の変の責任をとって自害した。享年23歳。国司の切腹は壮絶なものとして今も語り継がれている。

堀内運河を隔てて、清水清太郎旧宅跡の碑が立つ。

清水清太郎.jpg

東光寺の招魂墓を紹介した際、益田右衛門介、福原越後、国司信濃、清水清太郎、周布政之助の五人を取り上げたが、その清水清太郎である。藩家老で正義派に属し、やはり禁門の変の責任を取って自害した。享年22歳。
この清水清太郎は、あの秀吉の中国攻めに籠城抗戦し、水上で切腹して果てた備中高松城主清水宗治の子孫である。戦国と幕末に清水家は毛利家を切腹により救ったと言われる由縁である。

萩城址、指月公園は割愛し、南下し平安古地区へと向かう。三の丸と城下町の間には3つの門しかなく、厳しく守られていた。その南門が平安橋である。

平安古橋.jpg

橋の上からの風景もいい。

しばらく行けば、村田清風別宅跡がある。村田清風は三隅町に本宅があり、そちらに墓もある。

村田清風.jpg

改革派(正義派)の領袖としてこれまでにも名が出てきている村田だが、天保期には幕府だけではなく諸藩も経済的に疲弊しており、改革が求められた際に、財政改革のトップとして活躍した。薩摩藩に調所笑左衛門が居たように、長州もこの村田のおかげで幕末に力を発揮できたとも言える。
ただ財政改革にはやはり無理と犠牲があり、借金返済において商人に負担を強い、また交易重視が幕府の横槍も招いた。これにより一旦退陣して坪井九右衛門に実権を譲り、坪井が緩和したこともあって政策対立があり派閥が出来たとも見られるが、そもそも村田と坪井は協力関係にあったと見ることも出来る。

そのまま道を南下していたら、久坂玄機誕生地の碑があった。知らなかったのでびっくりした。

久坂玄機.jpg

久坂玄機は玄瑞の二十歳上の兄である。大阪の適塾で蘭学を学んだ優秀な医者だった。35歳で亡くなり家督は15歳の弟玄瑞が継いだ。

その久坂玄瑞生誕地も近くにある。

久坂玄瑞生家.jpg

自動販売機の横にある兄の碑と違って、立派である。久坂玄瑞旧宅前バス停まである。おそらく鍵曲りと並んで平安古一のスポットなのだろう。

このあたりも、道幅狭く昔の趣をよく残している。歩いていたら、また偶然山田亦介の旧宅跡が目に入った。ちゃんと調べて丁寧に歩けば萩は史跡だらけであろう。こうしてただ散歩のように歩いていても偶発的に出会うのだから。

山田亦介生家.jpg

山田亦介は村田清風の甥で兵学者。少年の頃の吉田松陰の先生としても知られ、松陰は生涯尊敬していたという。正義派の殉難十一烈士のひとりで、やはり野山獄で処刑された。

ここから西方向に歩けば、高名な平安古の鍵曲りが見える。実に風情がある。

平安古.jpg

このあたりが大楽源太郎が生まれた場所だと思うのだが、何も案内は無い。よくわからない。
大楽源太郎のことを書き出せば長くなってしまうので端折らねばならないが、長州における尊皇攘夷の先駆け的存在である。安政の大獄に至るまでの初期の志士活動の書籍などを読んでいるとよく登場する。梁川星厳、梅田雲浜、頼三樹三郎ら京都在住学者、また西郷隆盛らとも親交があり、吉田松陰よりも知名度が高かったのではないか。ただ、松陰門下生らが藩を動かし、尊攘という概念を政治的に利用したのに対し、大楽は最後まで純粋な尊攘論者だった。結局時代に取り残され、明治4年に殺される。その頃尊攘運動により倒幕を果たした長州らを中心とした明治政府は、開国路線を公式に表明していた。

鍵曲りを入りしばらく行くと、坪井九右衛門旧宅がある。

坪井九右衛門.jpg

坪井の話は繰り返したのでもう措くが、九右衛門は坪井家に養子に入ったのであり、実家は佐藤家である。この佐藤家は、遠祖に源義経の家臣佐藤忠信を持つという口伝があり、後、昭和になって、岸信介、佐藤栄作という二人の総理大臣を出した。

坪井九右衛門家の裏は、橋本川が流れる。松本川向こうの松下村塾から始めて、三角州を横切り歩いてきた。

橋本川.jpg

川面に山が映じて美しい。萩は、例えば鹿児島市や高知市と異なり都会化せず、旧来の町並みと自然を残してきた。釣り人がいる。おそらく昔と同じようにまだまだ豊かな川なのだろう。

名残惜しいが、これで旅を終えることにした。



なお本編の姉妹編として、長崎のマニアック歴史ポイント高知のマニアック歴史ポイントもよろしければご覧下さい。
posted by 凛太郎 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅記事 | 更新情報をチェックする
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